2020年4月27日月曜日

新人T、本日は少々スピリチュアルな話なんぞさせていただこうかと思います。

出身地の奄美や長く過ごした沖縄では「ユタ神様」の信仰があります。最近ではめっきり全国的にもメジャーになりましたが、地元では古来より生活に根付いております。
ユタとは簡単にいえばシャーマン。基本的にはかなり尊敬される存在なのですが、ピンキリ、と申しましょうか…まあ力の差があるのですよね。沖縄の小説や映画でも「インチキユタ」が定番で登場しますし、ユタに頼りすぎて財産食いつぶすなんてのも身近で普通に聞く話だし、なんならネタ。沖縄の家々ではごひいきのユタがいて、家族の何らかの節々には(受験とか結婚とか新築とか、悪いことが続くときとか)お伺いを立てるのが常。。
奄美はそもそも沖縄ほど信仰が厚くないのですが、私の親族はまー不届きものぞろいで、どちらかといえば両親にいたってはユタそのものを鼻で笑いかねないレベルでした。

4年前の1月、私は縁あって沖縄でまあまあ有名なユタに見ていただく機会がありました。私自身はもともとスピリチュアル系が大好物なので、ユタに軽々しい思いはもっておりませんでしたが、多少うがった見方をしていなかったとは言えません。屋台の占い師さんよりは格上、くらいの気持ちで、当時お付き合いしていた男性とのことを一通り聞いてみたりしました(そしてけちょんけちょんにけなされ、実際言われた通りの結末だったのですが、まあそれはさておき)。その後、では家族の生年月日を教えなさいと言われました。
ユタはその人の「生まれ」を見るので、血族の情報は本人の一部なのです。言われた通りに父と母の生年月日を伝えました。

すると直後、ユタは「お母さん、なんでこんなに体中痛いのね~?」と顔をしかめました。そこまでどちらかといえばヘラヘラしていた私は、一気に血の気が引きました。
母は、その2年前に初期の乳がんが見つかり、抗がん剤治療をしておりました。しかし思うような効果が得られず、抗がん剤の種類を次々に変えているところでした。痛みは1年ほど前から常態化していて、泣き言を漏らす母に「気持ちが負けてるから薬が効かないのよ!」と私と妹は強く当たることがありました。
とはいえ通院しながら通常の生活を送れていましたし、いずれ治るものだと家族は信じておりました。
そこに容赦ない言葉が続きました。「お母さん、マブイをだいぶ前に落としたね。命の火が尽きかけてるよ。もう長くないから覚悟しなさい。」

沖縄では、人は7つのマブイ(魂)を持っているという考えがあります。
マブイは、わりかし些細なことで落っこちます。ですから事故などはもちろん、出合頭に誰かとぶつかるような、ちょっとびっくりしたようなときにも「マブヤーマブヤーウーティキミソーリ(魂よ戻ってきてください)」と呪文?を唱え、マブイぐみ(魂込め)をするのが沖縄では日常です。それをせず放置するとマブイを落としたままになり、その人はどんどん弱ってやがて死んでしまうと恐れられているからです。
マブイを落として時間がたっても、ちゃんとしたユタがご祈祷すれば戻せることもあるのですが、私の母はすでに力のあるユタでもどうにもならない状態だということでした。

母の死を宣告された時点で、私はそもそも母が「がん患者」である事実すら認められずにいたことに気が付きました。
次の瞬間ああ、母は死ぬのだな、とすっと理解しました。
この後私はすぐ妹に電話でこの話を伝えました。すると母と両親同様スピリチュアルな事象をなめきっている妹が「ああ、マブイ落としてたんだ。じゃあしょうがない」と納得しました。
それまで妹は、母の弱気にとにかく怒り、保険診療外の治療や民間療法まで調べまくって母を治す気満々でいたのですが、かなり前から母の生命力が薄い、と感じていたというのです。病気で弱っているのではなく、あくまで生きる力そのものが弱っていると。

それから1か月半後のある朝、母は突然立てなくなりました。そのまま入院した先では、担当の医師が「こんなになるまでどうやって家にいたんだ」と驚愕するほど、体中にがん細胞が行きわたり、行き場を失った腫瘍は皮膚の表にまで出てきていました。
ユタには「体がむくんだら最後」とも言われておりました。入院してすぐに、母の体はハルクのようにぱんぱんに膨れ上がりました。痛みは日増しにひどくなり、痛み止めを増やしてくれるよう頼んでも「これ以上増やしたら心臓が止まる」と病院側から拒否されるほどでした。正直心臓が止まったほうがいいと思うほど、母は苦しそうでした。
入院して1か月たらずで、母は息を引き取りました。ぼろぼろの体から解放されたことに、家族はホッとしました。

通夜の前に、母の枕元にお坊様が来て下さいました。しばらく手を合わせたあと、「お母さん、もう痛くないし怖くないって言ってますよ」とおっしゃいました。思えば超常現象を信じない母は、目に見えないものを恐れてもいましたし、死そのものを忌み怯えていました。
何歳になっても子供にとって母親を亡くすことは、悲しみ以上に苦痛であり恐怖そのものです。その方の口を通して母の言葉を聞けたことも、ユタの言葉同様、ある種の神託の延長として私たち姉妹には救いとなりました。
お坊様は「もっと温泉に入りたかった」「お化粧道具を棺に入れて欲しい」とも続けました。抗がん剤で免疫機能が弱っていることもあり大好きな温泉をずっとあきらめていた母。そしてすっぴんをさらすことを極端に嫌って、いつでもきちんとお化粧をほどこしていた母の言葉そのものでした。

件のユタには帰り際「あんたたちの前に水子がいるね?」とも問われました。身に覚えがなかったのでキョトンとしましたし、ユタも首をかしげていたのですが。
そのお坊様にも「小さい子どもがいるけど…」と言われてようやく思い当たりました。
母には、中学生で骨肉腫を患い亡くなった姉がいました。母はその姉のことをとても慕っていて、半世紀たっても忘れてはいませんでした。まさこという名のその姉のことを、以前私は親戚から「天使みたいな子だった」と聞かされたことがあります。
最後せん妄状態だった母は、あらゆる幻覚を見て意味の分からないことを口走っておりましたが、その中で「まさこ姉さんが来ている」と笑っていたことがありました。
まさこ姉さんは水子でも小さな子供でもありません。それでも、私はその二つの暗示は彼女を指すと確信しました。
大好きなまさこ姉さんはずっと母のそばにいてくれたのか。迎えに来てくれたのか。ただただ私は安堵いたしました。

遺族の思い込み、自己満足。あるいはそれでもいいのではないでしょうか。
実は私スピリチュアルと同じくらい物理や数学が好きで、科学系の雑誌や本もよく読みます。そんな私にとって「死=消滅」でした。けれど母の死と関連した出来事で、「死は終わりではない」と根本から死生観が変わりました。まさにコペルニクス的転回。
この仕事を始めて3か月。毎日愛する人を亡くしたご遺族の話を伺う中で、私は自分が経験したこと、感じたことを追体験することがあります。今の私だから聞ける気持ちがあります。そういう意味でも、私がこの職場に出会えたことに、日々意味を感じずにはいられません。

人生って本当に不思議ですね!

0 件のコメント:

コメントを投稿

お知らせ

マコセ社員blogを見て頂き、ありがとうございます。 2021年4月1日から下記へblogを移行しました。 https://e-macose.jp/blog/